「BATIC Since1592」
「BATIC Since1592」の銘は、”BATIC”の起源が、西暦1592年、ルネサンス期に遡ることを伝えています。 最初のBaticワインは、16世紀にSempasのBatic家の領地の一画に暮らしていた、修道士たちによって誕生致しました。スロベニアの文化の担い手であった彼らが、聖餐式のために造り出したワインがその起源なのです。修道士達は、土と自然の周期の知識を活かした伝承のブドウ栽培法によって、優れた品質のワインをもたらしました。現在は、Batic領地内に修道士達が暮らしたことを窺わせるものはほとんど残っていません。屋敷内の壁画は薄れて消えかかっていますし、修道士達の名前もいつの間にか忘れ去られました。領地内のSt.Rokチャペル跡地も、いつごろ誰が植えたのか、今では見事に伸びた蔦が、辺りをすっかり覆い尽くしています。
しかし、ここにかつて誇り高い修道士達が住んでいたことを伝える、唯一の現存する遺産があるのです。それが、Batic家に伝わる高品質のワインです。Baticワインは、Sempas地方に住んだ修道士達のワイン造りの伝統を、400年以上の歳月を超えて、今日まで、Batic家が代々継承してきたものです。
「BATIC Since 1592」のブランド銘は、修道士達へのオマージュであるとともに、Baticワインが彼らのいさんを継承しているという、我が家の誇りと自負を語るものなのです。
「Vipavaのワイン産業」
ワイン造りを営む者にとって、19世紀は豊かで良い時代だったと言えるでしょう。Vipavaに住む人々にとっても、自然に恵まれた耕作地や果樹園は生活の拠り所でした。中でもワインは、広く地名Vipavaの名声を築く源となり、Vipavaのほとんどすべての領地内でワイン造りが営まれていました。Vipava産のワインの名は、オーストリア帝国、そしてオーストリア・ハンガリー帝国の領土全域に知れ渡り、ウイーンの貴族社会にまで浸透し、その高い品質が遍く人々に賞賛されていたのです。1899年当時のVipavaワイン産業は、四大商人によって支配されていました。その中の一人が、Vipava最大の領地を持ち、ワインの蔵元であり、製粉工場や酒場やレストランの経営者でもあったMiha Baticでした。彼は、自らが継承したワイン造りの伝統と、スロベニアの文化に強い誇りを持ち、当時学校では教えられていなかったスロベニア語を守り伝えることを自分の使命だと考え、領地内に読書室を設けて村人全員に開放していたのです。
そのMiha Baticの肖像画は、残念ながらBatic家には残っていません。しかし、彼の遺産、信念、同胞と大地への信頼は、彼の名を継ぎスロベニア語を母国語と呼ぶ現在のMiha Baticの心に脈々と生きています。Mihaという名は代々受け継がれ、今では、”Batic”という家名にしっかり結びついているのです。
「理想の農園」
一緒に働く仲間達は、さまざまな国の出身です。たまたま同じ村の出身者同士もいれば、私が訪ねたことのない遠い国からやって来た者もいます。旅の途中で偶然ここに立ち寄り、住み続けようと決めた者もいます。彼らは皆、それぞれの希望や喜びを胸に抱きながら、互いの経験や知恵を分かち合い、この農園でのブドウ作りとワイン造りの日々の感動を共有してくれます。私達は、血縁は無くても、ワインで結ばれています。ワインこそ、私達大所帯を結び付けている、血縁に等しい絆なのです。毎朝、この仲間達とブドウ畑へ向かい、共同で作業をします。彼らはブドウをまるで自分の家族のように知り尽くしています。ブドウ畑を管理していく上でのさまざまな決断には、日々の観察の積み重ねと、経験に基づいた分析が欠かせません。時には、ブドウの木一本ごとに異なる手入れを施すことも必要になります。それはちょうど、母親が子供の日々の成長に驚きながら、それぞれの将来を見据えて一人一人に応じた気配りの言葉をかけて育て上げるのと同じだと言えるでしょう。良いブドウを育てよう、という共通の想いがあるからこそ、冬の枝の剪定や土壌作りに始まり、春の苗木や若木の植え替え、初夏から続く枝の誘引や敵房、そして秋の手積みまで、滞りなく進んで行けるのです。
彼らが居なかったら、人間の労働と自然との調和に基づくワイン造りの理想が崩れ、数々の素晴らしいワインの優れた特質を失うことになってしまうかもしれません。